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もうその季節も大分過ぎてしまったのだけど、
振り返りつつ思い出しつつ、大好きな桜について。

3月も終わりの頃になると、ほころびかけた
固い赤茶のつぼみに自然と目が行くようになる。
買い物帰り。保育園のお迎えの帰り。
ある人はゆっくりめの仕事へむかう駅への道で。
ある人は登下校の学校の門のまわりにある桜のつぼみたちに。

桜前線、なんてものがあって、毎日のようにアナウンサーさん達が
「何日頃満開でしょう」
「楽しみですね」
と、悲惨なニュースの間の清涼剤のようにTVの中で楽しそうに会話する。
みんなこころまちにしている、桜。

咲き始めると町中が雪景色をしたように白く淡い桜色にそまって、
その季節だけ、いつもの町がまるで変わってしまうのだ。
皆、昼間の桜の下でお弁当を広げたり。
桜の下のベンチでじっと新聞を読んでみたり。写真をとったり宴会をしてみたり、
春のはじめの気候の暖かさも一緒になって
この季節は町中嬉しそうに見えてしまう。

ところでどうして私はこんなにも桜に(ブログタイトルに使うくらい)
惹かれるのかな。と、良く考えるのだけど
散り際の美しさとか、花そのもの色や咲くさまの美しさの他に
全く同じDNAを持っているそめいよしのという品種が毎年同じ時期にいっせいに
咲くために、桜と思い出が何かしらセットになっているせいかも、と思う。
この、桜がいっせいに咲く4月のはじめという時期の思い出。

例えば卒業式とか、入学式。
はたちの頃の桜。20代後半の頃の桜。様々な場面、場所で同じ時期に咲いていた桜。
小さな子供の頃の具体的な思い出は忘れても、小学校に何十本も咲いていた
あの、桜の美しさだけ良く覚えている。

いつも寂しくて、求めるものは何も満たされなくて。
友達はいたのだろうけど、家にも学校もなんとなくいごごちが悪かった小学校の
高学年。少女だった頃。
晴れた日に桜のトンネルの下から上を見上げると、
それはもう夢をみているように。
なんて涙が出てくるほど桜達は美しくて美しくて。
両親への不満とか。友達との小さな喧嘩とかのような少女特有の悩みは
もう、いっぺんにどこかへ行ってしまうのだ。

子供の頃から、特に雨の中の桜が好きだった。
灰色の優しい色合いの空と、ひんやりした空気に、なんて桜は似合うのだろう。

ある時、とても悲しい事があって、ひとりで買い物帰りかなにかに
静かな住宅街の中の桜並木の脇を傘をさしながら歩いていたことがあった。
自分の心が怒りでいっぱいになってコントロール出来ない、
何を見てもイライラしてしまうほどの、大きなショックな出来事は例えば
長い付き合いだった恋人との別れとか。大きな病気とか。
家族の不幸とか。
長く生きていれば誰でも遭遇するような、
私のその時の悲しみもそんなたぐいのものだった。

大きなグラウンド沿いにずっと咲いている満開の桜。
雨の住宅街の中のグラウンドにはもちろん誰もいなくて。
街の中なのに奥深い山の中にいるような、静寂。

日ごと怒りと悲しみとで眠れなくてぼんやりした頭で
ふらふらと、その何十本もの桜が満開のグラウンドに入っていったんだろうか。
ひと目もないこともいいことに、少し涙していたのかもしれない。
桜の下の雨で湿ったベンチに、多分買い物袋かなにかしいて
何十分も座っていた。

ああけれど、雨と桜と悲しみってなんて似合うんだろう
なんてぼんやりと馬鹿なことを多分考えていた。

淡い白い空から降ってくる霧雨に濡れる、密かな淡い桜色。
真昼の雨にけぶる、なんて満開の桜。
そのうつくしさに、やっぱり子供の頃と同じように
何もかも忘れて、ただただ見とれていた。


自然の作り出した美。
人の奥底からの温かい心、気持ち。
真に美しいものにふれると、
何故悲しみも苦しみも消えさり、流れ去り
何もかもが浄化されてしまうのだろう。






願わくば
桜の下にて春死なん
その如月の
望月のころ


そうして、はらはらとまう桜の花びらに心連れさらわれながら。
心も体も、まるで還って行くような気持ちになるのだ。




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2010.05.14 Fri l つれづれなるままに l コメント (0) l top

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